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全世界の混血の人の環境について、日本はある特徴があります。 全世界、どこでも「差別」の対象になりやすいのですが、日本だけ、混血(ハーフ)の社会的地位が高いということです。毎日、テレビを見ても、ハーフの芸能人がたくさんいたりします。 そして、日本において、これだけハーフの地位を押し上げた最大の功労者は日本初のハーフの芸術家、イサム・ノグチで間違いないと思います。
 1904年に日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれたのですが、母親に引き取られた彼は、「不遇」としか言いようがない日本での幼少期を過ごします。当時の混血への差別はすさまじく、最初、日本の学校に通っていたのですが、「アメリカ人だ」と、いじめられ続け、焦った母親は、アメリカンスクールに転校させるのですが、そこで、「日本人だ」と、いじめられ続けるのです。
 それだけいじめられ続ければ、性格が幾分は内向的になるのは、むしろ当然です。友達もできず、道端に落ちている石を削って遊ぶという少年期を過ごします。しかし、石削りもやり続けていると、
 「彫刻家になりたい」
 と、いう夢につながり、1919年、アメリカに渡って彫刻家ガツン・ボーグラムの弟子になるのですが・・
 「君に彫刻家は、無理」
 そう、宣告されてしまったのです。
 「まだ、若いんだし、学業を積みなさい。」
 と、いうことで、コロンビア大学に入学。 しかし、はっきり言って、全く勉強に身が入りません。失意の後に大学に入ってるんですから当然です。大学にはほとんど行かず、レストランでアルバイトを続ける生活をするのですが、
 「そう言えば、イサムはノグチって名前だったよな。野口先生の親戚なのか?」
 奇妙な偶然です。 たまたまコロンビア大学やってきた日本人が「野口」という名前だったのです。 で、「野口」先生も「ノグチ」という学生がいると聞いて興味津々です。 早速「野口」先生は「ノグチ」を呼び出しますと、ノグチ青年は「不遇」としか言いようがない自分の生い立ちを話すと、「野口」先生は驚愕します。
 「君は野口米次郎の息子さんなのか!」
 野口米次郎といえば、若干21歳でアメリカ文壇にデビューを果たし、後に慶応大学教授にまで登りつめた希代の詩人です。 それを聞いたノグチ青年は 「自分には、芸術家の血が流れている!」ことを実感すると、すぐさま彫刻の道に戻り、苦労の末、レオナルド・ダ・ビンチ美術学校に入学すると、たったの3ヶ月で個展デビューを果たします。
 石の彫刻にもかかわらず、滑らかな曲線を余すことなく表現するイサム・ノグチの作品は、瞬く間に全米に衝撃を与えると、すぐさま、その評判は全世界に知れ渡るようになり、特に日本には、数多くの作品を残します。(各都道府県必ず、一つぐらいはイサム・ノグチの作品があります)
 「いやー、あの時、野口先生がいなかったら、今の自分はないですね」
と話すたび、そういわれる日本人は首を傾げます。
 「そんな、都合よく「野口」なんて先生いましたね?」
 「嘘じゃない。これを見てください。そのとき「野口」先生にもらったんだから」
 そう言われて、その手紙を見た日本人は誰もが驚愕したといいます。

君には、芸術家の血が流れている。休むことなくがんばりなさい。君はきっとすばらしい芸術家になれることだろう。
コロンビア大学 客員教授 野口英世