0300 - スイミー

<スイミー>
広い 海の どこかに、小さな 魚の きょうだいたちが、楽しく くらして いた。 みんな 赤いのに、一ぴきだけは、からす貝よりも まっ黒。およぐのは、だれよりも はやかった。 名まえは スイミー

ある 日、おそろしい まぐろが、おなかを すかせて、すごい はやさで ミサイルみたいに つっこんで きた。 一口で、まぐろは、小さな赤い 魚たちを、一ぴき のこらず のみこんだ。 にげたのは スイミーだけ。

スイミーは およいだ、くらい 海の そこを。こわかった。さびしかった。とても かなしかった。 けれど、海には、すばらしい ものが いっぱい あった。おもしろい ものを 見る たびに、スイミーは、だんだん元気を とりもどした。 にじ色の ゼリーのような くらげ。 水中ブルドーザーみたいな いせえび。 見た ことも ない 魚たち。見えない 糸で 引っぱられて いる。 ドロップみたいな岩から 生えている、こんぶやわかめの 林。 うなぎ。顔 を 見る ころには、しっぽを わすれているほど ながい。 そして、風に ゆれる もも色の やしの 木みたいな いそぎんちゃく。

その とき、岩かげに スイミーは 見つけた、スイミーのと そっくりの、小さな 魚の きょうだいたちを。 スイミーは 言った。 出てこいよ。みんなで あそぼう。おもしろい ものが いっぱいだよ。」 小さな 赤い 魚たちは、答えた。 「だめだよ。大きな 魚に 食べられて しまうよ。」 「だけど、いつまでも そこに じっと いるわけには いかないよ。なんとか 考えなくちゃ。」

スイミーは 考えた。いろいろ 考えた。うんと 考えた。 それから、とつぜん、スイミーは さけんだ。 「そうだ。みんな いっしょに およぐんだ。海で いちばん 大きな 魚の ふりを して。」 スイミーは 教えた。けっして、はなればなれに ならないこと。みんな、もち場を まもる こと。

みんなが、一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、スイミーは 言った。 「ぼくが、目に なろう。」 朝の つめたい 水の 中を、ひるの かがやく 光の 中を、みんなは およぎ、大きな 魚を おい出した。<分析>

《ぼくが めになろう。》
真っ黒なスイミーが、そう号令したあの日から、小魚たちの世界は一変した。大きな魚なんて、もうこわくない。おびえながら過ごした日々とは、おさらばさ。岩陰からこっそり見ていた広い海は、今や僕たちのものだ。虹色のゼリーみたいなクラゲ、水中ブルドーザーみたいなイセエビ、風に揺れる桃色の椰子の木みたいなイソギンチャク、誰のところにも、どこにでも行ける。
自由だ。ばんざい。
これもスイミーのおかげだ。スイミー、ありがとう。僕たちは、今、とっても幸せです。

小学生だったあのころ、われわれの誰もが、まっすぐに信じて疑わなかった。「小魚さんたち、よかったね」と。そうして、勇敢にして聡明なスイミーに出会うことができた彼らの幸運を、心からことほいだものだ。だが、もう、無垢な子ども時代は過ぎ去った。成長して曲がりなりにも大人となった今、われわれはあらためて問い直してしかるべきなのではないか。

小魚たちは、本当に幸せになったのだろうか。

「当たり前ではないか」と、諸君は叫ぶかもしれない。「大きな魚におびえなくてもよくなったのだ。自由に外の海を泳ぎ回れるようになったのだ。これが幸せでなくて、何を幸せというのだ」
 たしかに、びくびくと縮こまった潜伏生活から脱却できたことは、よいことだろう。岩陰から飛び出して、海の広さを謳歌できるようになったのも、素晴らしいことだ。
だが、何かを得たとき、かわりに何かを失わなくてはならないのが世の習いである。小魚たちは、その自由の代償に、何か大切なものを失いはしなかったか。

鍵となるのは、テキスト中の次の言葉である。《スイミーは おしえた。けっして はなればなれに ならない こと。みんな もちばを まもる こと。》
小魚たちは皆、スイミーによって、持ち場を割り振られたのである。役職を命じられたのである。人間の組織の中に持ち場があるように、営業部長・経理課長・受付のお姉さん・お茶汲み・清掃係といった役割があるように、小魚たちは、自ら果たすべき役目を命じられたのである。
スイミーは、小魚たちを呼び集め、ひとりひとりの名を呼び上げては、持ち場を割り振っていったのだろう。
「トゲヒレくん」
「はいっ」
「あなたは、胸びれの先の部分をお願いします」
「はい、わかりました」
「次、エラハリさん」
「はい」
「あなたは、尾びれの付け根の担当です」
「がんばるわ」
「次は‥‥、デメくん」
「はいっ!」
「君は、肛門です」
「‥‥へ?」
「屁ではありません。肛門です」
「こ、肛門!?」

そうなのである。各自に持ち場が割り振られ、そしてその持ち場が意味するものが、大きな魚の形をした集団内における担当部位ということである以上、「胸びれ」「えら」「尾びれ」などとともに、当然、「肛門」などといった持ち場も必要となってしかるべきなのであり、それを担当すべき者も必要となるのである。むろん、建前上は、すべての持ち場はいずれも組織にとって同等の価値を持つ。その地位に貴賤があるわけではない。が、それにしても‥‥。よりにもよって‥‥。肛門ではなあ‥‥。

くだんのデメくんも、おおいにぼやいたことであろう。「なんでオレが肛門なんだよ。オレが何をしたっていうんだよ」だが、大きな魚を追い出して広い海に出ていく、という大義名分の前には、個人の都合など一顧だにされるはずがない。不満な顔でもしようものなら、
「おい、デメ、おまえ、オレたちみんなが自由になるってことに、反対なのかよ」
と、ただちに咎められたであろう。
「なあ、デメさんよ、あんたの気持ちもわからんではない。でもな、みんなが自由になるためには、誰かが肛門をやらねばならんのだよ。今回はたまたま、あんたが肛門役をやることになっただけなんだよ。次はオレがさ、肛門かもしれんのだよ」と、なぐさめられ、懐柔されもしただろう。
「ほら、考えてもごらんよ、肛門役って、ひとりしかいないんだぜ。オレなんか、背びれの一部だよ。大勢の中のひとりってだけさ。それに引き替え、おまえはすごいぜ。おまえのほかには、肛門はいないんだ。オンリーワンってことだぜ。うっひょー。ナンバーワンよりオンリーワンだぜ。君だけが肛門なんだ。よっ、コーモンさま!」
と、おだてられもしたであろう。
デメくんも一応は納得したに違いない。大義に殉ずる自己犠牲の精神に、いささか陶酔したかもしれぬ。はじめは渋っていた彼も、ついには、「ぼくが、こうもんに なろう」と雄叫びをあげ、「大きな魚」組織へと身を投じたに違いない。
そうして小魚たちはみな一丸となり、
《あさの つめたい みずの なかを、 ひるの かがやく ひかりの なかを みんなは およぎ、おおきな さかなを おいだした》
のである。

が、しかし、現実とはしばしば非情なものである。小魚たちが外の海を泳ぎ続けるためには、大きな魚のふりを継続しなくてはならない。少しでも隊伍を乱そうものなら、大きな魚ではないことがばれ、近寄ってきたマグロに、あっという間にひと呑みにされてしまう。生き残るためには、組織を維持し続ける必要があるのだ。
そして、組織というものは得てして、長く続けば続くほど、硬直化するものである。かりそめに与えられただけの役割が、いつしかあたかも本来的なものであるかのような意味合いを帯びてくる。スイミーは目となり、トゲヒレくんは胸びれの一部となり、そしてデメくんは肛門になるのだ。今や、デメくんを「デメくん」と呼ぶ者など、誰もいない。
「おい、肛門」である。
かつて、「今回はたまたま、おまえが肛門役をやることになっただけなんだよ」などと、あるいは、「よっ、コーモンさま!」などと賞賛したことを忘れたかのように、「やい、肛門」と、侮蔑のまなざしをもって呼ぶのである。いったいどうしたわけだ。話が違うではないか。
デメくんにしてみれば、こんなに理不尽な仕打ちはない。たしかに、広い海に出た。大きな魚も、こわくなくなった。しかし、今の自分の立場、皆から肛門肛門と蔑まれているこの状況の、いったいどこが幸せというのか。そうだ。恋すらも失ったのだ。
あのころ、あの岩陰でおびえながら暮らしていたころ、そんな暗い時代ではあったけれど、オレ自身は幸せでなかったわけではないのだ。まん丸な目がかわいらしいマルメちゃんと、けっこういい線までいっていたのだ。なのに、「大きな魚」となって岩陰を出てからというもの、口蓋部に配属されているマルメちゃんとは、一度も顔を合わせられなくなった。
恋しさのあまり、
「元気にしてる?」
と伝言で伝えてもらったことがあるが、戻ってきた返事に、耳を疑った。
「肛門が、あたしに何の用よ」
うおー、くそう、オレは肛門じゃないんだ。いや、たしかに、肛門ではある。でも、肛門じゃないんだよお。
憤懣のあまり、集団から飛び出そうとしたことも、二度や三度ではない。が、そのたびに阻まれた。強引に引き留められた。「おい、何してるんだ、オレたちを殺すつもりか。肛門のない魚が、いるはずがないじゃないか。おまえがいなくなった瞬間、オレたちが大きな魚じゃないことってことが、マグロの野郎にばれちゃうんだ。そうしてぱっくり、ひと呑み、一網打尽だ」
ああ、オレは、死ぬまで肛門なのか。肛門として一生を終えるのか。ああ、なんという苦役、なんという侮辱。オレの自由は、いったいどこへ行ってしまったのだろう‥‥。

さて、いかがであろうか。そろそろ、最初の問いへ戻ってみよう。小魚たちは、本当に幸せになったのか。諸君には、もうおわかりだろう。ここには、真の意味での自由など、微塵もない。あるのはただ、組織の中の持ち場という名の桎梏にがんじがらめにされた、あわれな個人の集団でしかない。広い海の中を泳ぎ回る、という行動の自由を得た代償に、彼らは精神の自由という真に大切なものを手放してしまったのだ。スイミーが小魚たちにもたらしたものが何だったのか。もう子どもではないわれわれは、もう一度よく考えなくてはならないのではないか。


2。
さて、以上見てきたように、肛門になってしまったデメくんの例は極端であるにしても、今や小魚たちは大なり小なり、それぞれの「もちば」に束縛されるようになった。組織という名の網の目が彼らをひとしなみに覆い、彼らの生活を根本から変えたのだ。
もちろん、変化によって得た新たな地位に、満足した者もいただろう。外の海を泳ぎ回れる喜びを噛みしめている者もいただろう。だが、一方では、肛門に近いような持ち場を与えられ、不満にくすぶる者も多かったに違いない。
そうした者たちを中心として、過去を懐かしむ声ならぬ声が、郷愁が、悔悟の念が、波紋のように広がっていったとしても、不思議ではなかろう。
「あの頃は、よかった」
「大きな魚の影に、おびえていたけれど」
「でも、僕らの間には、差別はなかった。軽蔑はなかった」
「誰もが平等だった」
「みんながか弱い小魚だった」
「なるほど身体は自由ではなかったけれども」
「しかし魂は自由だった」
「ああ、あの頃に」
「戻りたい」
そんな思いの行き着く先は、決まっている。
スイミーさえ来なければ、僕たちはあの頃のままだったんだ」
すなわち、リーダーに対しての疑念であり、そして不信である。自らが選んだはずのリーダーに、すべての責任を押しつける。いつの世にも、どこの世界にも、ありがちなパターンである。もちろん、賢いスイミーのこと、組織のメンバーたちのそんな心境の変化に気づかないわけがなかろう。小魚たち自身がそれを意識する以前から、自らの指導力の低下を、組織のほころびを、その兆候を、目ざとく感じ取っていただろう。

それに対して、スイミーはどう応えるのか。
「わかった、それじゃあ、みんなで一緒に岩陰に戻ろう。岩陰に戻って、組織を解散して、小さくても自由な生活に戻ろう」
などと、提案するであろうか。否、である。スイミーにとって岩陰は、そこから逃れるべき牢獄でしかない。外の海、クラゲやイソギンチャクやイセエビが象徴する、広く明るい外の海だけが、スイミーにとっての「海」なのだ。世界なのだ。
いや、そもそも、「みんな あかいのに、一ぴきだけは からすがいよりも まっくろ」なスイミーは、単なる小魚の集団の中では、明らかに異分子なのである。異端なのだ。
集団が組織としてオーガナイズされている今でこそ「目」などという立派な地位におさまっていられるが、寄せ集めの群れの中では単なる変わり者でしかない。尊敬されるどころか、村八分にされてもおかしくはない。
すなわち、スイミーにとって、岩陰に戻ることは、イコール、自分が爪弾き者になることを意味しているのである。
では、どうするか。

ここでわれわれは、おそろしいことを考えねばならない。不平の声が上がるのを黙って待っているようなスイミーではあるまい。スイミーはつねに攻めの男なのである。スイミーの辞書に、「守り」も「待ち」もない。必ずや、先手を取るに違いない。自身のリーダーシップの衰えを感じたスイミーは、すばやく決断するだろう。そして、間髪を入れず、行動に移すだろう。
何をか。
「見限る」
のである。小魚たちを、かつてきらきらした尊敬のまなざしで自分を見つめた小魚たちの群れを、スッパリ、捨て去るのだ。翳りの見え始めたリーダーシップには、何の未練もない。もはや意のままにならない、軟弱な小魚どもの集団など、がまんして統率する義理もない。いや、思い通りにならない組織なんて、存在する意味がない。
「ふ、俗物どもめ」
と、一瞬、侮蔑の笑みを浮かべ、別れの言葉も告げぬまま、ひとりスイとスピードを上げて、「目」の位置から飛び出すのだ。それだけでいい。一瞬にして、リーダーを失った小魚たちは、哀れにも算を乱し、右往左往し、「大きな魚のふり」はもろくも破れ、近づいてきたマグロにパックリひと呑みだ。泳ぎが速いスイミーは、そのころには、はるか遠く。

と、ここでわれわれは、さらにおそろしいことを考えねばならない。これは、どこかで見た光景ではないか、と。
《にげたのはスイミーだけ。》
そう。われわれは、この場面をたしかに見た。それも、つい先ほど。物語の冒頭で。
《ひろい うみの どこかに、ちいさな さかなの きょうだいたちが、たのしく くらしてた。》
《ところが あるひ、おそろしい まぐろが おなかを すかせて、すごい はやさで ミサイルみたいに つっこんできた。ひとくちで まぐろは ちいさな あかい さかなたちを一ぴきのこらず のみこんだ。》
テキストにはあたかも、スイミーと赤い小魚たちの幸せな日々が、突然のマグロの襲撃によって無惨にも断ち切られたかのように描かれている。しかし、その裏には、別の真実が潜んでいたのではないか。
もちろん、テキスト中に明言されていることではない。
「あかい さかなたちは おおきな さかなの ふりを していました」と、書いてあるわけではない。しかし、
「おおきな さかなの ふりを していませんでした」とも、記されていないのである。

もしかしたら、『スイミー』というこの作品は、ある長い長い物語の、ほんの一章、一部、断章でしかないのではないか。本当の物語は、もっともっと、はるかに長いのではないか。
この短いテキストの冒頭部分、小魚の集団がマグロに呑み込まれてから、末尾の「おおきなさかなを おいだした」までは、つまるところ、ある遠大な物語の中の、ひとつのサイクルに過ぎないのではないか。テキストに登場する赤い小魚たちの集団は、スイミーが打ち捨てた、二番目の集団、あるいは三番目、四番目、n番目の集団に過ぎなかったのではないか。
つまり本当の物語とは、スイミーという漂泊者の物語、自分の思うがままに操れる集団を求めて岩陰から岩陰へとさすらう、孤独な権力者の物語なのではないのか。
《こわかった。さびしかった。とてもかなしかった。》
と、テキストにある言葉は、自らがつくりあげたものを自らの手によって葬り去った、というその非道な行為に対する寂寥感であり、哀愁であり、おそれではなかったか。
《そのとき、いわかげに、スイミーは みつけた。スイミーのと そっくりの、ちいさな さかなの きょうだいたち。》
という「そのとき」のスイミーの目には、獲物を見つけた肉食獣のごとき、冷たい笑みを含んだ不穏な光が、宿りはしなかったか。
スイミーは かんがえた。いろいろ かんがえた。うんと かんがえた。》
という、その「かんがえた」の内容は、「大きな魚に対抗するためにどうすればいいのか」ではなく、自分にとって都合のよい組織としてこれらの小魚どもを編成するには、誰をどこに割り振ればいいのか、おのれに忠実な組織を今度こそつくりあげるには、何をどうするのが最適なのか、それらについて考えた、ということなのではないのか。
そして、 《ぼくが、めに なろう。》 という宣言は、専横なる独裁者の歓喜の雄叫びではなかったのか‥‥。

いや、よそう。これ以上勘ぐるのはやめよう。子どもたちの夢を壊すのがオチだ。《みんな あかいのに、一ぴきだけは からすがいよりも まっくろ。》そんなスイミーが、見かけばかりでなく、心の奥底まで真っ黒な魚だっただなんて、誰も思いたくはなかろう。